創業ストーリー
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私が事業を興すことを決意してから、今日に至るまで様々なドラマがありました。
そして、この先も、私たちの医療の『コレカラ』に対する想いが、さらに大きなドラマを生み出していくと信じています。
このストーリーは、当社が誕生するに至った経緯と、当社の現在までの道のりの一部を紹介するにすぎませんが、皆様に当社や私の会社に対する想いを知って頂くきっかけとなれば幸いです。
私は、当社を創業する前、3年間、大学病院で外科医として仕事をしてきました。
なぜ最初の職業として医師を選択したのか、しばしば聞かれることがありますが、実は、明確な理由はありませんでした。歴代続く開業医の家に生まれ育った私にとって、医者になるのは自然なことだったのです。
外科医としてスタートをきってからは、ひたすら仕事に打ち込んできました。休日は年に数える程度でしたが、苦しいとか辛いとか思ったことは1度もありませんでした。
外科医をしている間、休むことなくがん患者と向き合い続けましたが、常にある出来事が頭の片隅にありました。それは、学生時代に、叔父と叔母を立て続けにがんで亡くしたことです。二人ともまだ50才前後の若さでした。
「自分はこのまま外科医を続けて、あと何人の患者の命を救えるのだろう?」
医師として一人ひとりの患者と向き合うのは、やりがいのある大切な仕事だ。一方、自分だからこそ実現できる患者への貢献の仕方もあるのではないか?
外科医の仕事に打ち込む一方で、叔父と叔母を亡くしたことをきっかけに芽生えていた疑問が心の中で徐々に大きくなり、自分はどのように生きていきたいか、真剣に向き合う日々が続きました。
その中で、10代の頃からおぼろげに心に浮かびながらも、外科医としての多忙さを理由にずっと心の奥底に閉じ込めていた、ある想いが再び頭をもたげてきました。
「事業をやりたい。自分の力で価値を生み出したい。」
一医師としてではなく、事業を興すということによって、より広い世界で、より多くの人の役に立ちたい。
これまで流れに委ねて選んだ道を一生懸命走ってきましたが、この想いを心に閉じ込めきれず事業を興すと決めた時、初めて私は、自分の意思で人生の方向を決めたのです。
「自分は、事業を興し、経営者として生きていく。」
そう決断した私は、すぐに大学病院を辞めました。家族には事後報告でした。
このときの感覚は今でも忘れずに、大切にしています。
なぜか、体が軽くなり、気分が晴ればれとした感覚。一方で、きちんと前を見据えていなければ、いくらでも堕落した人生になってしまうのではないかという恐怖感。全く異なる二つの感覚の間を揺れながら、私は自らの手で人生を選択したことを実感しました。
その後すぐ、私は、色々と巡って来る考えを整理するため、ヨーロッパへ旅に出ることにしました。これまでの定型的な生活で固まってしまった体と心を解き放ちたかったので、旅行の詳細を一切決めずに旅立ちました。
この旅は、私にとって3年ぶりの自由な時間でした。時間に追われずに過ごす日々、様々な国で触れる多様な文化や考え方といった、これまでにない環境の変化を経験することで、徐々に私の中で変化が起きてきました。
その中で最も大きかったことが「考えること」に対する感覚の変化でした。旅を通じて、これまでの教育や生活で受け身になっていた脳が、徐々に自分の意思で働き始める感覚を覚えたのです。これを機に、私の中で自ら考え決断する思考プロセスが生まれました。
結局、この旅の中で、どのような事業をどのように立ち上げるのか、具体的に決めることはできませんでした。しかし、長年閉じ込めてきた事業への想いをまっさらな気持ちの中で再確認し、自らの意思で望むものであることを明確にできたことで、前向きなエネルギーが湧いてきました。
それだけではなく、この旅ではある大きな「収穫」がありました。しかし、これが実現するのは、まだ少し先のこととなります。
旅を終えて日本へ戻ってきた私は、事業を興すための具体的な行動について考え始めました。しかし、起業するにしても、私にはビジネスの経験が全くありません。そのため、ビジネスそのものを一から学ぶ必要性を感じていました。
そのような中、2000年4月にある雑誌に出会いました。
それまでも、バイオテクノロジーは、海外でのブームもあり、大きな可能性を秘めていると感じていましたが、『エコノミスト』誌の「ゲノム最前線」という特集に、日本で遺伝子解析技術を用いた創薬系のバイオベンチャーが設立されたといった記事が紹介されていたのです。
私はすぐにその会社に電話をしてアポイントを取り、「ぜひ、ここで一緒に仕事をさせて欲しい!」と、バイオビジネスに対する熱い想いを語りました。
そのバイオベンチャーは、快く話を聞いてくれ、いわば飛び込みの私を受け入れてくれたのですが、実際働くとなると、私のこれまでの経歴から、当然のこととして、研究開発での仕事が期待されていました。
しかし、私の意思は違っていました。起業という明確な目標があったため、事業・経営に関わる部署で働きたいと強く訴えたのです。今思えば勝手な話だったかもしれませんが、その時は必死でした。
幸いにも会社は私の希望を聞き入れてくれ、企画、財務、予算管理、経営計画の策定といった、医者の世界とは異なった、よりビジネスの現場に近い様々な仕事に取り組む機会を得ることができました。
この機会を通じて、それまで名刺の渡し方さえ教わったことのなかった私が、無我夢中で事業を、そして経営を学ぶことができたのです。
バイオベンチャーでの仕事を通じて、事業・経営を経験する日々は、とても充実していました。一方、充実すればするほど、起業への想いも益々高まっていきました。
そのような中、一つの転機が訪れました。私は、バイオの業界に関わる中で、再生医療をはじめとする細胞治療が今後発展していく分野になると考え、社内で関連する新規事業の提案をしていました。そして、ある時、そのビジネスモデルについて東京大学医科学研究所附属病院の病院長に提案する機会を得ることができ、プレゼンをしたところ、その事業化を検討する前提で、東京大学医科学研究所(医科研)の客員研究員にならないかというオファーを受けたのです。私は、上司に相談して同研究所の研究員になることについて了解を得ることができました。
医科研では、臍帯血移植や臍帯血を用いた再生医療をはじめとする最新の治療についての研究を行いながら、自身が提案した事業の実現に向けて検討を行っていました。その過程で、現在の当社の事業の根幹となっている、樹状細胞ワクチン療法と出会ったのです。
樹状細胞ワクチン療法は、治療に樹状細胞と呼ばれる免疫細胞を用いることから、このように呼ばれています。この療法は、樹状細胞にがん抗原(がんの特徴)を認識させ、その樹状細胞を患者の体内に戻してリンパ球にがん抗原を覚え込ませることにより、リンパ球にがん細胞のみを狙って攻撃させるというがんの治療方法です。
この療法は、がん細胞のみを狙って攻撃でき、正常細胞を傷つけないことから、副作用がほとんどない治療です。また、リンパ球が体内で長期間がん抗原を認識し続けるようになるため、持続的にがんを制御することが可能です。(これが樹状細胞「ワクチン」療法と呼ばれる理由です。)
医科研では、悪性黒色腫、甲状腺がんの末期がんの患者を対象として同療法の臨床研究を行いましたが、そこでは約30%の臨床的有益性(腫瘍の消滅、縮小、進行停止が見られること)が得られました。
外科医として多くのがんと関わった経験から、私はこの時、この技術は事業化できると直感しました。
その後、この臨床研究の結果が噂となり、患者からの問い合わせが続いたのですが、臨床研究期間を終えてしまった後は治療を提供することができませんでした。
臨床研究の成績や患者からの問い合わせの多さが、この技術を事業化することによる社会貢献の大きさを確信させました。
「求められているのに、提供できない」。この状況を変えたいと思った私は、研究開発に関わった教授等に、この技術を持って起業したいと訴えました。
こうして教授等の同意を得て、2004年6月、テラ株式会社が産声を上げました。当初は、私一人で創業しました。
創業直後から、樹状細胞ワクチン療法を導入してくれる医療機関を探すこと、この療法に対するがん患者の認知・理解を得ること、会社の人材の確保、資金の調達等、やるべきことに終わりはありませんでした。
体は1つ、持ち時間は1日24時間という限られた状況の中、多忙を極めましたが、自分が信じる技術を持って事業を始められたことは何事にも代えがたい喜びでした。
24時間、仕事のことだけを考え、夢中で事業に取り組みました。
創業間もないベンチャー企業がどのようなスピードで成長できるか。それを決定する要因は様々だと思いますが、私が最も重要と考えていたことは、共に歩む仲間として、いつ、誰を迎えるかということでした。
過去に人間関係が事業に与える影響を様々な形で見聞きしていたことから、私は誰と働くか、とりわけ、誰をパートナーとして選ぶかという点には強いこだわりがありました。
創業後間もなく、私はその後の当社の急成長を支えることになる1つの出会いを得ることができました。現在、当社の取締役副社長を務める大田との出会いです。
大田とは、当時、当社の監査役であった友人の紹介で知り合いました。その頃、大田は資格試験の専門学校に勤務し、新規営業先の開拓に打ち込む日々でした。大田は、トップセールスとして様々な業績を残していたことに加え、一緒に仕事をしたいと思わせる人柄の持ち主で、私は強く惹かれました。
私は大田に対して、事業について説明し、ぜひ一緒に取り組んで欲しいと強く訴えました。この時、最初は事業内容の説明をしていたものの、話が深まるにつれて、話題のほとんどはもっと先の将来を見据えた、お互いの「夢」になっていったと記憶しています。
こうして何度も朝まで語り明かした結果、大田は今の職を離れ、私を手伝うことを決断してくれました。こうして、私は初めて本格的なパートナーを得て、大田と二人三脚での活動を始めました。
大田の助けを得ることができるようになった私は、これまで以上に事業の立ち上げに奔走しました。その中で取り組まねばならなかった大きな課題の一つが、資金調達でした。樹状細胞ワクチン療法を医療機関に導入するためには、億単位の資金が必要だったのです。
しかし、当社には事業計画があるのみで、まだ具体的な導入実績がなかったことから、なかなか話が進まない状況が続きました。
今から振り返れば、笑い話のようでもありますが、2人で銀行を訪れ、事業計画を説明して借入を依頼し、当然のように断られたこともありました。またある時は、病院グループの理事長に事業提携を提案し、断られることもありました。この頃は、全く先の見えない状況が続く、厳しい日々でした。
このような中、私の友人が、どうしても引き合わせたいベンチャーキャピタリストがいるというので、初めてベンチャーキャピタルと話をすることとなりました。
この時出会ったのが、現株式会社東京大学エッジキャピタル(UTEC)代表取締役の郷治友孝氏です。この時、郷治氏から伺った話により、UTECが、東京大学の技術の実用化に特化したベンチャーキャピタルであり、単にキャピタルゲインを得るのではなく、大学発の技術を、責任を持って社会に送り出すための支援に重きを置いていることを知りました。
私はこのUTECの考え方に共感し、一方、郷治氏も末期がん患者の希望に応えるという、当社の技術が有する社会貢献性に強く興味を持ってくれました。
その後すぐに、郷治氏と様々な議論が始まりましたが、道のりは決して平坦ではありませんでした。UTECが投資実行を決定するまでの間、何度も何度も先の見えないやり取りが続きましたが、最終的に、2005年1月、最初の資金調達が実現しました。
当時を振り返ると、自分の事業で社会に貢献したいという強い想いだけを胸に、ひたすら仕事に打ち込んできましたが、UTECがこれに応じてくれたことに深く感謝しています。
大田との二人三脚による活動で今後の事業展開に道筋をつけようと奮闘していた頃、会社は、さらにもう一人の心強い味方を得ました。その後の当社の成長を支える原動力となっている、現取締役医療事業部長の堀永が当社に加わったのです。
当時まだ学生であった堀永とは、上述のヨーロッパ旅行の際、ドイツのミュンヘンで行われていた、『オクトーバー・フェスト』と呼ばれる世界最大のビール祭りの場で出会いました。
ヨーロッパで出会った後も連絡を取り合い、会う度に将来の夢について語り合いましたが、彼とは価値観を共有できる部分が多く、私としては、今後の当社の成長を考え、ぜひ一緒に仕事をしたいと思っていました。
そこで、事業の話から始まり、お互いの人生について何度も深く語り合う機会を重ねた結果、堀永は快く私の想いに応えてくれ、当社の創業初期を支える、3人目の仲間が参画することになったのです。
こうして2人の理想的な仲間を得た私は、一刻も早く当社の技術を医療機関に導入できるよう奔走しました。
その結果として、ついに2005年6月に東京都港区白金台にあるセレンクリニックに、初めて技術・ノウハウが導入されることとなりました。
創業から約1年、医師を辞めてから既に約6年、先の見えない時間が長く続きましたが、ようやく自分の思い描いていた事業の一部を実現できたことに、大きな充実感と喜びを感じました。
また、思いがけないうれしいニュースも飛び込んできました。この技術の導入が、日経産業新聞の1面に取り上げられたのです。この出来事は、私たちの取り組みが社会の役に立つと判断してくれる人たちがいることを感じさせてくれました。これにより、私は、この技術により社会に貢献しようという創業時の想いが間違っていなかったことを確信しました。
創業から1年を経て、ようやく思い描いてきた事業の第一歩を踏み出すことができましたが、技術導入後の展開は順調とは言い難いものでした。
私たちは最先端の技術を提供しているという自負はあっても、世の中の認知はゼロに等しい状況でした。また、この技術の有用性を理解してくれていた医師にとっても、新しすぎる治療を患者に紹介することは容易ではありませんでした。
「もっと、この治療について知ってもらわなければならない」。私と大田、堀永は手分けして、全国の医師を訪問し、また、セミナーの開催やがん雑誌への記事掲載を通じて患者への認知活動に注力しました。
その甲斐あって、少しずつ問い合わせや紹介による来院者が増え始めたのですが、ここでさらに、事業の拡大を困難にする状況に直面することとなりました。
樹状細胞ワクチン療法を提供するためには、まず、樹状細胞にがん抗原を認識させる必要があります。医科研で行われていた臨床研究では、このがん抗原を患者のがん組織から得ていました。しかし、医療機関に来院される患者のほとんどは、過去に他の病院で手術を行ってしまっているためがん組織を確保できなかったり、既に体の状態が相当悪くなっておりがん組織を得るための手術が不可能であったりしたため、がん抗原を得るためのがん組織が得られないケースが多かったのです。がん抗原が得られなくては、樹状細胞ワクチン療法を実施することはできません。
私たちの技術が世間に認知され始めたにもかかわらず、このような状況のため、治療の実施機会がそれに応じて増えなかったのです。
この状況を打開しなければ事業の拡大どころか、存続自体が困難です。私たちは、これまでとは比べものにならない程の、大きな危機にさらされていました。
事業が困難な状況に陥ると、周囲の人たちは一斉に会社の代表に対して冷ややかになります。企業の代表の宿命と言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが、苦難の時期が続きました。
この時、周囲の目を気にすることなく、大田、堀永が力強い支えになってくれたおかげで、私としても辛い時期を耐え抜くことができました。私は、チームの大切さを身にしみて感じるとともに、やはり、会社は「人」で成り立っているのだと実感しました。
困難に耐えながら様々な対応を模索し続ける中で、この状況を打開する出会いがありました。当時、徳島大学口腔外科講師を務めていた岡本が当社に加わったのです。
彼の研究内容を耳にした時、ぜひ一緒に仕事をしたいと思い、すぐ連絡を取って徳島まで会いに行きました。その場で、彼の持つ技術を日本そして世界に広めるために一緒に仕事をしたいことを熱心に伝えました。この時お互いの想いを語り合い、その後何度も徳島まで足を運んだ結果、岡本はついに東京に出て、当社に参画することを了承してくれました。
岡本の技術は、樹状細胞をがんに直接注入するものであるため、樹状細胞に認識させるがん抗原を必要としません。この療法により、がん抗原を使用せずに治療をすることが可能となったのです。
そして、岡本の参画が縁となって、もう一つの出会いがありました。杉山治夫・大阪大学大学院教授です。杉山教授は、ほぼ全ての固形がん・血液がんに用いることのできるがんの人工抗原『WT1ペプチド』を発見された先生です。当社はこのつながりから、WT1ペプチドを樹状細胞ワクチン療法に応用する独占ライセンスを取得することができました。これにより、患者が自分のがん組織をがん抗原取得のために確保できない場合であっても、ほとんどの種類のがんに対して樹状細胞ワクチン療法が提供できることとなりました。
この2つの出来事が、がん抗原を確保する困難さという根本的な問題を解決し、当社の契約医療機関において、順調に症例が増加していく契機となりました。そして症例の増加が、樹状細胞の培養技術等をさらに発展させることとなり、当社の技術・ノウハウ自体が、より高水準なものとなっていったのです。
樹状細胞ワクチン療法の症例実績が増加していく中、当社はさらなる飛躍の機会を得ることができました。
それは、現当社顧問である、高橋豊・千葉大学大学院教授、芝本雄太・名古屋市立大学大学院教授の参画により、両教授の研究技術を用いることで、これまでの常識を覆す、新しい概念のがん治療技術・ノウハウを確立し、提供を始めることができたことです。
これまで、化学療法と放射線療法は、いずれも、正常細胞を傷つけ免疫機能を低下させるものとして、免疫療法との併用が行われることはほとんどありませんでした。しかし、両教授の技術協力により、少ない量の抗がん剤を継続的に投与することで抗がん効果を期待する、副作用の少ない化学療法『がん休眠療法』と、がん細胞のみに対してピンポイントに照射できる放射線療法『低侵襲放射線療法』が可能となり、これらの療法と免疫療法が併用できるようになったのです。これが、『アイマックスがん治療(免疫最大化がん治療:Immune maximizing therapy for cancer)』です。
これらの取り組みにより、当社の技術を導入する契約医療機関の数も着実に増加しました。現在は、国立大学附属病院や、日本有数の白血病治療実績を持つ病院にも当社技術が導入されています。
私の部屋には、将来の事業戦略を描いた未来年表が貼られています。私は毎日その年表を見て、これからの当社のあり方を考えています。
会社の方向性について、私が明確に決めていることがあります。それは、当社を、がん治療を最初の一歩としながら、将来的にはその他の様々な病気を対象として、かつ、その予防から治療までを含めて、医療全体を変革していく存在としていきたいということです。
私が自身の役割として最も大切にしていることは、明確なビジョンを示し、社員の共感を生みだし、会社を目標に向かって力強く進ませることです。
今、当社は次々と新しい社員を迎え、その可能性を拡げています。その社員に対して、私はいつも語りかけています。
「わたしたちは、可能性を創っている」
そして、私は社会に対しても、力強くメッセージを発信していきたいと考えています。
『コレカラを、テラから。』
医療と社会の未来のために、可能性を創り続ける存在であるために、私たちは今後も挑戦を続けていきたいと思います。